最初、この曲について語ることを私の本能は躊躇した。それは自らが保つ、理性の境界線を踏み越えてしまいそうな危うさを覚えたからである。
表面的には可愛いアイドルによる美しい映像のMV。しかしながら、その内側には言葉にするにはひどく難解で、息苦しささえ感じてしまうような物語が展開している。
複層的な本曲の世界は聞き手により様々な受け取り方があるが、私が最初に聴いた時に受け取ったメッセージは”命と救い”だ。
白キャンはこれまで己の内面の悩みや不安といった感情と、それに立ち向かう自らの世界について描いてきた。
活動初期からの楽曲を並べてみると自分という存在に気付く『アイデンティティ』、成功も失敗も含め自分の生き様を認める『全身全霊』、清濁を併せて飲み込み自分だけの道を行く『らしさとidol』。
そして昨年の4周年にて披露された『わたしとばけもの』においてはコロナ禍の社会情勢にも踏み込み、その内包する世界は次第に拡張してきた。
だが、そこには乗り越えた先の”答え”とも言うべき世界が用意されてきた。しかしながら『世界犯』において無慈悲な世界は答えを与えてはくれない。そして”死”による、いわば禁断の究極の救済さえも与えてはくれないのだ。
自ら死を選ぶこと、それは現代の社会においては広義には許されないこととされている。だが、不治の病で苦痛にもがき苦しむ中で死を望むことは許されないことであろうか。
如何ともしがたい自らの運命の闇から逃れるために死を望むことは悪なのであろうか。強く否定できない私がいるのも また事実だ。
生と死、そして善と悪。それらの境界はひどくあいまいだ。それを象徴するかのように本曲には相反する二つのフレーズが登場する。
「笑えば壊れていた」
「笑えば救えてた」
自らが誰かを救えるとして、その代償に己が壊れてしまうとするならばそれは善であるのか。自らを守るために、誰かを救わないことは悪であるのだろうか。
これが少年漫画の世界であればきっとどちらも救われるのであろう。だが現実を生きる人間はそんなには強くはなく、カルネアデスの板の選択はいつも重くのしかかってくる。
偶像に生きる者にとって必須ともいえる鏡を破壊する小野寺梓
才能を持つがゆえに孤独と苦悩に苛まされる三浦菜々子
人の都合で命を終わらせた切り花に水をやり延命をさせる橋本美桜
生きる糧である食事ですら過食により苦しみとなる西野千明
物を想像するための刃物は無すらも作り出してしまう浜辺ゆりな
楽しいはずの電脳の世界に囚われすぎてしまう鈴木えま
誰かを生かすための薬を死にしようする麦田ひかる
そんな二律背反のアンチノミーを問いかけるかのようなMVは 途中に挿入されるメンバーの和やかな姿でオブラートに包み、目を覆いたくなるような現実を絶え間なく突き付けてくる。
本作の発表前にメンバーは5周年に向けての合宿で自らと向き合う一万字の作文に取り組んだ。
作文については色々な批判もあったが、この曲の世界を”正しく”現わすために青木プロデューサーが逆風の中でも覚悟をもって踏み込まなくてはならなかった理由が今となっては分かる。
メンバーの書いたその作文は全世界に公開された。あまりにも赤裸々に自らの内面に迫った独白は、己の身を裂くかのような痛みを伴ったのは想像に難くない。
だがアイドルという存在として、そして目まぐるしく流れていく日々の中では、今までの人生において彼女たちが死んでしまいたいほど悩んでいたことすら あっというまにコンテンツとして消費されてしまうのだ。
「痛くて 苦しいのに 寂しいのに
今日も 明日も 何も 変わらない日々 」
この一文が、ただ、ただ今の私には痛い。
「お願い 触らないで 触れないでよ
君も 誰も 何も 分からないだろう? 」
この一文が、ただ、ただ、今の私には痛い。
ラストのサビ前に小野寺梓が歌う、少しの怒気を孕んだ「そんなのどうでもいい」。それは誰も救えない自らの無力への怒りだろうか、それとも救わない世界への怒りだろうか。
そんな本曲は、5年の年月を己と真摯に向き合ってきた白キャンのメンバーだからこそ歌うことが出来るものであろう。
そして彼女たちと同じく歩んできた、作曲の古屋葵氏、作詞のmimimy氏、振り付けのゲッツ氏などの制作に関わる方々らが白キャンに熱量を惜しみなく捧げ、青木プロデューサーが魂を刻み込んだからこそ産みだされた奇跡の作品でもある。
本曲の歌詞を順に辿っていくと、深く救いのない世界に沈んでいくような感覚を覚える。だが、歌詞を最後から逆にたどっていくと日常の当たり前の幸せを享受するかのように感じられる。これはアナグラム的な仕掛けとなっているのか、それとも単なる偶然であるのか。
メンバーの個性にリンクさせて書かれた歌詞と歌割は相当のこだわりと、作りこみ具合が伺える。そしてソリッドな音に加えられた優しい鍵盤のハーモニー、ラストのダイナミックなユニゾンに至る曲の構成、そしてブレスが強めに入る メンバーの声の個性が主張された歌唱も本曲を名曲たらしめる要素だ。
以上が現時点で『世界犯』を聞いた私の感想だ。だが、一年後にこの曲を聞いた時にはきっとその印象は変わっているのであろう。
白キャンはファンが思う”こうなのだ”という既成概念を軽々と飛び越えて変化していく。だからこそ、私は今のこの瞬間を少しでも言葉という形で残しておきたいと思うのだ。
それはアイドルとして生きる彼女たちが青春の時間を燃やし、その心を削って初めて放つことの出来る輝きへの敬意。そして、その光の残酷さを知りながらも、ただ笑って享受することしかできないファンとしての原罪への贖いでもある。
たぶん私は真っ白なキャンバスの居る世界に、これ以上ないほどに犯されてしまっているのだ。
私は彼女達の歌を聴いては涙をあふれさせる。笑えば 救えていたのか? そんなのどうでもいい。当たり前じゃないことを噛み締めて生きていれば。
嗚呼、儚くとも幸せで、痛みを伴った命の形は狂おしいほどに美しい。